建築という形式への無関心


独り芝居の連続

現実の都市の風景もそんな現実にあわせてひどく素気ないモノになっている。〇〇真理教の聖堂がもっとキチソと、少しはマシな材料でつくられているような都市の風景なのだ。
聖堂のすべてが、タダ富士山の草原にポイと置かれたような場所との無関係ぶりが都市のすべてに横溢している。過剰とも思えるほどの無関心の表明ぶり。
そんな風景の中で人びともまた、独り芝居の連続に生きている。そんな都市の風景がますます、無表情さを競う超高層ピルのオフィス内部にも、駅舎にも、シティホールにも張り詰めている。すべてが無関心の素振りを演技しながら、全部が管理されているのが歴然としているのだ。
住居の一部も、そんな無関心ぶりが装われている。が、しかし大半は、というよりも圧倒的な量の住居の全体は、そんな都市が産み出すゴミの山の風景を相変わらず続けている。

超高層ビル

〇〇真理教の聖堂群はいくつものブロックに分けられ建設されたが、その、それぞれには何の脈絡もない。
彼らには建築の概念が放棄されていたから、その建設には何の意匠的な計画はなかった。驚くべぎ建築という形式への無関心ぶりがあった。繰り返すが、彼らはそこで繰り広げられた概念そのモノ以外への関心がまったくなかった。
それがゆえ、聖堂は建設されながら、そのママ消費の形式を、つまり巨大ゴミ状態を呈していたのだった。一九九六年五月現在、第六聖堂と呼ばれる建築群以外はすべて国家の管理下に置かれて一切使用されていない、文字通りの巨大ゴミになった。
〇〇真理教聖堂群は化学兵器工場であったり、精密機械製作工場であったり、印刷工場であった。が、同時に何がしかの聖堂には日常、多くの信者たちが住み暮らしてもいた。
つまり、住居でもあった。ここでは工場と住居とがそのスタイルを同一のモノとしていたのである。信者たちの生きる意欲の中には住居らしい住居の概念は存在していなかった。

工場

極論すれば他者に対する視線の不在は住居という形式を消失させるものであるらしいのだ。〇〇真理教信者たちの生活には他者が存在しなかった。膨大な他者の存在という現実から逃避することが出家することであったからだ。


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