消費の都市の消費の構築


新しい消費の都市

ホームレスの町は消費の海に孤立した小さな島だ。そこに打ち寄せられたゴミの数々があのダンボールの内を形づくる。世界各地で不可避に起きている飢餓の状態はダソポールタウソには起きない。アフリカの草原や北朝鮮に出現しているという飢餓の状態が、消費を旨とするわたしたもの都市には出現しないという事実。

食物を生産するはずの農村地帯に飢餓が出現し、食物を大量消費しているはずの都市に、食物の余剰が出現している大矛盾。現代の消費社会はすでに生産という概念をも超えていく得体の知れぬ力を顕示し始めているのだろうか。
富士山麓上九一色村。ここにも新しい消費の都市が出現した。かつて、詩人は、富士山には月見草がよく似合うと、つぶやいた。

今、富士山には途方もない消費の数々がよく似合っている。富士急ハイランドの超絶、絶叫マシーンの遊戯装置の数々、スーパーローラーコースターの大曲線を持つ構築物は、誠に富士山によく似合うし、数々の大霊場の墓石の数々もよく似合っている。
富士山には樹海の海だけではなく消費の海も急速に押し寄せ、そして風景を変えてしまっている。とめどもない消費のエネルギーがここにもある。

富士山

オウム真理教の聖堂群もまた、消費の都市の消費の構築、そして消費の住居の現実を予見していたといえるだろう。聖堂群は明らかに消費社会の未来を的確に暗示しているのだ。そこには死滅の姿しか残されていない。オウム真理教の聖堂群を巡って想うのはゴミの山はゴミの山にしかすぎないという事実だ。

もちろん遺跡などにも決してなり得ない巨大なゴミの山としての建築。そして現実の都市の裸の姿がそこには厳然としてある。第二聖堂を遠くから眺めるとき、そこには現代建築の一部にも共通するある種の美学があるように感じる。人間臭がまったく感じられぬ巨大でノッヘリとした箱。初期の近代建築が生み出した、たとえば、近代建築の先駆者の一人であるP・ベーレンスのAEGタービンエ場などとは似ても、似つかぬ。

しかし、やはりほかの何よりも工場のような佇まい。ルーコルピュジエのドミノーシステムに、安手の建材をペタ。ヘタと貼りつけただけのようなフィーリングがそこにはある。巨大で、あっけらカソとして、何の装飾も、何の細部もないから、スケール感が完全に欠落してしまっている。

そこがモトモト相対的スケールの規準がない富士山麓にはよく似合っている。同じ富士山麓にある大石寺正本堂の巨大なカテナリー構造の不気味さとは、またちがう。
さらに現代的な不安の形が現前しているようにさえ想われるのだ。外に対する圧倒的な無関心がそこにはある。外とは、聖堂の外に広がる富士山の草原ではない。社会の現実である。

草原

かつて、建築は無数の関係の網の目からさまざまに紡ぎ出された空間であった。特に宗教空間はそうであった。どんな形式であるにせよ、どんな種類のモノであるにせよ、ありとあらゆる形での精神の尊厳のようなモノが空間の形式をもって演じられていた。

特に、いわゆる新興宗教においては、それが顕著なのが現実であった。彼らは、ある種の尊厳を、現実としての空間に託さなければならなかった。誰にでも理解できる巨大さや、荘厳さ、非日常的な記念碑性がことさらに空間に求められ、宗教空間は異常な身振りを演じるのが常であった。

別のいい方をすれば、そこにはある種の空間という闇が繰り広げられ、さまざまな謎の数々が演技されていたのだ。オウム真理教の聖堂にはそんなことへの関心は一切合切ない。見事なまでにない。
そこにあるのは外部への圧倒的な無関心の表明と、内部、つまり自身への個々の生体そのものへの強い関心、執着である。

オウム真理教信者たちにとっての最大の関心は自己の身体である。それ以外の何物でもない。かつて密教の修行者たちが自然と対して自らの身体を苛酷に改造し、即身成仏を目指したのに対し、彼らオウム真理教信者たちが使用したのは山岳密教の自然という道場ではなく、薬物であり、ヘッドギアであり、コンピュータであった。


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