都市の日本人の無表情


周囲との不思議な違和感

最近、異常な風景を都市で見かけることが多い。電車の中や、バスの中、あるいは路上で、レストランで、公衆便所やプラットホームで。何やら大声でひとり言を放つやからが大変に多いのだ。デッカイ声でつまらぬことをつぶやいている。

今どこにいるから風呂沸かしてオケとか、在庫がどうだとか、出張のスケジュールがこうだとか、どうでもよいひとり言が多い。よくよく観察するに、彼らひとり言主義者たちのすべてが手に小さな装置を握りしめている。ピルピルピルと鳴ったり、鳴らなかったりするモノだ。
小さなアンテナ状のモノを引き出したり、引っ込めたりしている。聞けば、ソレは携帯電話と呼ばれるモノであるらしい。

その小型装置で現実の場所にはいない遠くの誰かと会話をしている模様である。観察を続けるに、誠にもって異常な風景がそこには出現してしまう。

たとえば、そこが走る電車の中であったとする。携帯電話で遠くの誰かと、つまり、現実のそこの場所にはいない誰かと話している人間は、そこにいながら、そこにいない。
つまり、現実であって現実でない風景をつくり出してしまう。周囲との不思議な違和感が出現する。

携帯電話

〇〇真理教信者たちのヘッドギア姿ほどではないが、それに近い違和感と恐怖感がそこには出現する。恐怖感と裏腹な滑稽感もそこには確実にある。
走る電車の中という日常的な都市風景に演劇的な場所が繰り込まれてくる。携帯電話は知らず知らずのうちに、それをもつ人間を演技の魅力に引き込んでいるのだ。この装置はこれまでの電話の延長線上に生み出された装置ではない。

むしろ新しい身体性の延長上にある装置であるまいか。ヘッドギアの日常化、情報空間のきわめて現実的な身振りがそこに出現しているのではないのか。
公衆電話も都市の中にある通信機器である。しかし、この装置は電話ボックスがあるにせよ、ないにせよ、電話をしている人間の周囲に産み出されている空間は現実のリアルタイムなモノだ。

誰もが、すでにそこに何の違和感も感じることはないだろう。路上からニューヨークやロンドンと会話をしていても誰も驚きはしない。
携帯電話にはそれとは異なる力が備わっているように思う。この装置は現実の時間の流れの中に、別の現実を突然に出現させる。

特にそれは携帯電話を使用していない他者にとって不思議な意味を発生させるのだ。偶然に居合わせた日常空間が突然に歪み始め、そこに、これまでは意識したことのない他者が歴然と出現する。
その他者は、その現実にはいない人間とワケのわからない会話を始め出す。時に、ケッケッと笑い、驚くほどに表情豊かに、いつもの都市の日本人の無表情とはマルで違う表情がそこには出現している。

日常空間

わたしたちはそこに、これまでの伝統的な空間ではない空間の出現を歴然と感じ取るのだ。わたしたちの歴史的伝統にはなかった装置による演劇性が明らかにそこにはある。


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