都市が産み出すゴミの山の風景


ゴミの山建築

住居もまた、そのような性格を帯び始めている。まだはっきりと特定することはできないが、建築家たちが建てる住居の一部にはその影が反映され始めてもいる。
住居の一部はオフィスビルの姿に似せられて建てられるようになるであろう。一時期モダーンデザインは色濃くキッチュの性格を帯び始めていた。都市の中心部はアメリカの高層ピルの縮小再生産ともいうべきコピーで埋められた。
同時に、都市の周縁部はそんな中心部が産み出した廃棄物の山が覆い尽くした。都市の周縁部に産み出された新興住宅団地の風景は都市が産み出すゴミの山の風景になったのだった。

まさにそんなゴミの山建築に没入していたような時期がわたしにはある。一九七〇年代の中頃のことだっただろうか。今、新宿西口地下街のホームレスピープルのダンボールタウンを通り抜けるたびに、あのゴミの山建築を痛切に思い起こす。

たとえば、渥美半島の豊橋市老津町の伴野一六邸。千葉・鴨川の機械館、沼津の乞喰城。そして知多半島の貝ガラ公園。今、思い起こせば、すべてゴミの山であった。バラック建築の名品の数々はさまざまなゴミの山であったのだ。

ゴミ

伴野一六邸は海辺に打ち寄せられた漂流物で組み上げられていた。
さまざまな木片、電信柱、TVのブラウン管、鏡、など。自分の土地の前の浜辺を歩き、そこに打ち寄せられていたたくさんのゴミを採集し、それで住居を建てたのだった。

たったひとりで一〇年ほどをかけて。それは今想えば歴然としたゴミの山だったけれど、何か光り輝くモノがあった。そうか、アノ、ゴミの山のすべては都市の消費の辿り着く極北だったのだ。当時から、すでに都市に余剰物が溢れ始めていた。

それが捨てられ、海へ流れ、また、浜辺に打ち寄せられる。伴野一六さんの住居はその消費のサイクルの一断面をみごとにわたしたちに示してくれていたのだった。一六さんの住居があった場所も象徴的だった。都市の外れの海辺。考えてみれば、都市という消費の周縁にそれはあった。

近代社会がっくり出した際限のない消費の海としての都市と、現実の海の狭間にその住居はあった。ゴミの山の姿をして屹立していたのだった。
都市の海が捨て去ったゴミが漂流して自然に打ち上げられたのが伴野一六邸だった。

浜辺

今、伴野一六邸の前には海もない。海という自然の中の自然さえもが消費されてしまった。そこは埋め立てられて豊橋市の巨大な工場団地が出現している。三河の山々が削り取られ、その土や岩で海が埋め立てられた。

そして、伴野一六邸の前の海も、もちろん漂流物の宝庫としての浜辺だって消えてなくなった。伴野一六さんは住居をつくり続ける手段をなくしてしまった。
あの家はつくり続けられることで輝いていた。ゴミがただの廃棄物であることをやめて、使われるコトで生命を与えられていたからだ。

しかも、現代をよくそこに表現していた。海をなくした伴野一六さんの家は今度こそ、タダのゴミの山になってしまったのだ。それは夢の島のゴミの山と同じ類のモノになってしまった。

そして、新宿駅西口のダンボールタウンとも同じ類のモノになってしまったのだ。新宿駅西口に出現しては消え、また、出現しているダソボールタウソ。アレはどこかで、新興住宅団地の住居群の姿と通底している。


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