ゲームとは他者不在の非現実世界の凝縮


サティアン都市のような形式での住居の消失には希望がない

ここでは家族という最小限の共同体すら人為的に解放され、修行集団として再構成されていた。したがって、彼らの生活の場には従来の住居らしさはいかなる形をもっても出現することはなかった。
スケールとしても、もちろん形としても、ましてや空間としても、一切合切の住居らしさは出現しなかった。出家した信者たちは工場や倉庫やオフィスに棲みついてしまったのだ。ここでは住居という形式の消失がモデルとして示されてもいる。

そして現代はその方向へとメイソストリームを向け、すでに流れ始めているのだ。個々の人間の身体性、つまり自己世界への異常な関心は現実世界からの逃避現象を引き起こしている。
自己世界への異常な関心ぶりは現代社会のシステムがっくり出した、ある意味では普遍的なものでもある。普遍が歪むことだって多々あることなのだ。
そこに想像力を働かせる必要がある。

倉庫

今、若い自我形成の大半は受験システムによって成されるといって過言ではない。受験システムとは勉強のゲーム化である。オウム真理教教祖をのぞく幹部たちの異様とも思える高学歴ぶり。

そして高度な知性であるはずの彼らの野卑とも思える帰依ぶりは、彼らの勉学がゲーム化されていたことを明らかにする。ゲームとは他者不在の非現実世界の凝縮である。彼らに必要であったのはたったひとりに凝縮された仮定としての他者、つまり教祖麻原彰晃だけだった。
それ以外の他者は彼らのゲーム感覚を著しく疎外するだけの要素でしかなかったのだ。小、中、高、大学と彼らはよく学んだ。学校は現実社会のシミュレーションの一部でしかない。そこには本格的な他者は存在し得ぬのだ。彼らの感性も知的能力もそんな疑似シミュレーションの枠内で育てられ続けてきた。

そうしてついに他者の存在しない疑似社会が構築された。その管理機構までが現実の官僚制を真似た。すべてが現実のコピーのようなもうひとつの現実がそこに出現したのだ。富士山麓上九一色村サティアソ都市はもうひとつの住居の現実である。

普遍という概念は近代の、つまり生産概念を。へースに置いていた時代精神の結晶のひとつであった。今でも、それは形骸化しながらひとり歩きすることがある。しかもそのひとり歩きはオウム真理教サティアソ都市のような怪物を産み出してしまうことがある。
そのことにも、わたしたちはまた、想いを巡らせなけれぱならない。

書籍

現代の普遍性という夢想こそが、おぞましい怪物を生み出す原動力になることがあるのだ。凡庸に使われることが多い普遍という名の幻想こそ、注意深く見据えなけれぱならぬモノの一つであろう。

普遍性という幻想に支えられた住居群は消失しても一向にかまわない。特にわたしたちが生活する日本の特殊性を考えるならば、特にその価格の異常さを考えるならば、今ある住居群、そして現実に流通している普遍としての住居群は解体され、消失しても一向にかまわない。

むしろそうなったほうがよいとさえいえるくらいだ。なぜならば、それは異常な高価格ぶりによって著しく人間本来の自由を拘束し、疎外している。しかしながら、サティアソ都市のような形式での住居の消失には希望がない。


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